胎内施入品について


 胎内施入品とは、仏像の内部に納められた舎利や経典などをいい、奈良時代の仏舎利を施入した例に始まり、平安時代以降様々な例があります。広島県では、鞆町安国寺の阿弥陀如来像・法燈国師像や、呉市安浦町の観音菩薩像など、これまで五例が確認されています。 

 平成13年の仏像修理の際、胎蔵寺本尊「釈迦如来」の胎内より金銀銅製五輪塔・経巻など多数の胎内施入品が発見され、備後のみならず広島県の中世史を塗り替える資料として注目を集めました。

 

 胎蔵寺の釈迦如来像に納められていた施入品は、仏舎利を納めた金銀銅製の五輪塔が最も重要な核として錦の袋に厳重に梱包され、お顔の最前面に納められていました。

 その他、法華経や金剛般若経などの経典を写経し巻物として梱包されたもの、折本に装丁された版本経典、念珠、毛髪や爪等もありました。

 大半を占める経典類には、年号や施主名、地名や寺名などの上書き、納めた方々の願意や趣意などを記した奥書があります。その年号から、南北朝時代の貞和三年(1347年)に造像されたことが明らかとなりました。

 これまで、室町時代中期に造られた釈迦如来像であるとされていた従来の説より約100年古いことが確認され、この釈迦如来像は現在の福山城の場所にあった「常興寺」という禅宗のお寺の本尊であったこと、大檀那は南北朝時代の武将・杉原親光であることなど、その時代の様々な情報を知ることができます。


 これらの施入品は、広島県立歴史博物館にて整理分類と調査が行われました。その数は294点(経典等206点、袋や包紙等の梱包材88点)にも及びます。


 常興寺・・・現在の福山城の丘陵(築城当時は常興寺山と呼ばれていた)にあったと伝えられる禅宗寺院。

         法燈国師の弟子である無伴智洞を開山とし、室町時代は五山の一つであった。


【金銀銅製五輪塔形舎利容器】

 

 高さ7.3㎝、地輪幅(四角底辺幅)2.7㎝。

 広島県西部工業技術センターにおいてX線透過検査及び成分分析が行なわれ、五輪塔内部に円筒形の内容器があり、その中に舎利二粒が納められていることが確認されています。施入されていた状況としては、水輪(球形部分)に袈裟状の麻製布を掛け、全体を和紙で包み、錦の袋2枚に入れられ、さらに木版法曼荼羅を間に挟んだ麻製の袈裟に包まれ、最後に錦の袋に納められていました。

木版法曼荼羅
木版法曼荼羅
麻製袈裟
麻製袈裟
錦の袋
錦の袋


【杉原親光筆墨書法華経】

 

 八巻からなる妙法蓮華経を一巻にまとめて書写してあり、80枚の紙をつなぎ合わせて全長は37m68㎝にも及びます。写経された終わりの部分に「奥書」があり、その記述によって釈迦如来像造立の大檀那が「杉原親光」という人であること、造像の年月日、願意が明らかとなりました。

 杉原親光は、備後の有力国人領主である杉原氏の一族であり、北朝方の室町幕府からの指示命令を受けて備後の国で活動していたということが、尾道の浄土寺に伝わる文書に記されています。

 ここにみられる「貞和三年」の記載だけでなく、他の施入品記載の年号の多くは同年のもので、その下限は「貞和三年四月一日」であることから、それまでに釈迦如来像は造られ、像内に施入されるすべての品々も写経し整えられたと考えられます。そして、4月8日が釈尊の誕生日であることから、この日に開眼した可能性が高いといえます。

  この年号記載が明らかとなって、従来その様式や形態から「室町時代中期・15世紀中頃」の造像とされていましたが、「南北朝前期・14世紀中頃」まで約100年さかのぼることになりました。

 また、福山市草戸の明王院の国宝五重塔が造営されたのが貞和四年であることが、最上層の屋根の上にある伏鉢に刻まれていることが確認されています。このことから、仏教文化がこの地域において隆盛していた時代であったといえるのではないかと思われます。

 この親光の写経は、厳重に梱包された五輪塔と共に、釈迦如来の種字である梵字「バク」を一面に墨書した紙で包まれ尊顔の内部最前列に納められていました。



【版本略法華経】

 

 頭部内最前面納入のもの、右後方に納められていたもので、縦14.5㎝、横4.5㎝、十三折の経本です。粘葉装で綴じられ、渋紙の表紙に『略法華経』と墨書されています。

奥書最後の行に「住持比丘曇叟心華書」とあることから、当時の常興寺住職が「曇叟心華」という僧であったことがわかります。

【版本大乗法華経】

 

 胴部の最上段に納められていたもので、縦20.3㎝、横8.4㎝、厚さ6.0㎝、二百二十一折の経本です。渋紙のタトウに容れられ帯状の紙封を施し、梵字「バク」を全面に墨書した紙で包まれていました。この経本は、現在の中国浙江省杭州市で元時代に印刷されたものであることが、刊記により確認されております。

【版本観世音経】

 

 胴部の最上段の後方に納められていたもので、縦22.9㎝、横7.4㎝、十六折の経本です。『観音経』が木版印刷された折れ本仕立てのものです。この経本は、鎌倉時代の永仁六年(1298)に住職の曇叟心華の母親「心蓮」が購入し、しばらく所持していた後、曇叟心華が奥書きをして施入したということが読み取れます。



 以上の三点の版本経典の奥書に「日本国備後州深津郡椙原保常興禅寺大佛殿本尊釈迦牟尼如来像中」とほぼ同文の記述があります。このことから、「常興寺という禅寺大佛殿本尊釈迦牟尼如来であった」ということがわかります。「深津郡椙原保」の文字は、歴史研究の上で大きな話題を提供することとなりました。石清水八幡宮領であった杉原保(椙=杉)は、中世備後に大きな勢力を持っていた杉原氏の「苗字の地」と考えられており、これまでは尾道市北部の木梨城主杉原氏が本拠としていた地域であることが定説とされていましたが、一方で主張されていた「杉原保は常興寺山周辺である」との説が裏付けられ、その位置が特定されることになりました。


 その他にも多くの写経や所持していた経本が納められており、それらには前述の常興寺住職 曇叟心華・一挙叟継鵬・韜光庵慈聖・韜光庵大檀那 聖貞など禅僧の名が確認されています。巻物の写経は、『般若心経』『梵網経』『金剛経』など数多の経典が含まれております。それぞれにまとめられ、梱包した包み紙はかなり傷んでいても、写経はきれいなまま保存されているもの、『法華経』八巻本をひと括りにしたもの、版画の技法で摺られた印仏、諸尊のご真言をひたすら墨書したもの、念珠や毛髪などもありました。



参考資料 『広島県文化財ニュース第193号』・県立歴史博物館『中世文書を読む(四)胎蔵寺の文書から』